Jリーグと俸給の関係

1993-1996始めから絶頂

1993年、Jリーグが開始された。新しいものを求めていた人々に好意的に受け入れられ、平均3万人程度の観客を集め、テレビでも頻繁に放映された。観客収入と広告収入はともに高く、財政的に恵まれた状況にあった。恵まれた環境で、競技水準とはともかく世界でもトップクラスの年俸を出すリーグとなった。三浦知良やリネカーらスター選手は100~300万ユーロ相当の俸給を受け取っていた。ヴェルディの主力級選手、例えば北澤豪やラモス瑠偉らは20-60万ユーロ相当の俸給だった。当時はヨーロッパのリーグも規模が小さく(参考:ヨーロッパのリーグ規模の推移、世界トップ級の選手でも100~200万ユーロ相当の俸給に過ぎなかったため、Jリーグは潤沢に選手を集めることができた。

一方で、多くのクラブは実業リーグの体制を引き継いでおり、アマチュア選手も多数抱えていた。例えば、1992年アジアカップ優勝メンバーであった中山雅史も、Jリーグ初年度はアマチュア契約であった。トップ級のプロ選手と底辺のアマチュア契約選手の差が大きい時代でもあった。

この時代に活躍した外国人としては、ジーコやリネカー、ラウドルップら、スター選手が数多く、世界的にはキャリア末期に年金を受け取るリーグとして認知された。また、キャリア終盤ではあるが代表に選ばれ続ける程度には現役のドゥンガ、後にACミランに移籍するレオナルドらも在籍していた。後にアーセナルの監督となるヴェンゲルもこの時期に日本に滞在している。また、後に日本に帰化することになるディド・ハーフナーやワグナー・ロペスらもこの時代から在籍している。

1997-2002劣勢の時代

開幕当初は好調だったJリーグは、1995年ころから3つの問題を抱えて劣勢に陥る。

メディアとの対立――Jリーグ開始当初は、日本メディア大手の読売グループが保有するヴェルディを中心として、派手なメディア露出戦略が行われていた。読売は、Jリーグをプロ野球と並ぶスポーツの看板に育てるつもりだった。しかし、Jリーグ理事会は、実業団スポーツからの脱却とFIFA基準の準拠を掲げ、読売の要求を拒否した。読売との対立は結果的にメディアとの対立を招いた。このためテレビ放映権収入が低下、ひきつづいて広告料と観客の低下ももたらした。Jリーグ開始当初スターをそろえていたヴェルディは、読売の撤退により程なく没落する。

金融危機――1997年にアジア金融危機が発生し、タイや韓国がIMFの管理下に入る事態となった。日本もこの余波を受け、破産が必要な会社が多数発生し、連鎖的な信用収縮を招いた。この一件で、横浜フリューゲルスが破綻し、それ以外のクラブも広告料が一層絞られた。

MLBとの競合――1995年、野茂英雄が日本プロ野球と契約闘争を起こし、日本を去ってMLBに進出し、そこで大きな成功を挙げた。その後、2000年に入り、佐々木主浩、イチロー、松井秀喜らが続けて大リーグに進出して成功をおさめ、2000年代初頭には日本で最も人気のあるプロスポーツはMLBとなった。NHKでもJリーグの中継はないがMLBの中継はある、といった状態となった。

こういった事象が重なり、Jリーグ球団も破綻の危機に陥り、支出を削減せざるを得なくなった。2000年の時点で、J1リーグ主力級の選手の年俸は、新人で5~10万ユーロ程度、A代表水準の選手で30~50万ユーロ程度、数名のトップ級の選手(特に外国人)で50~100万ユーロ程度であった。また、国際標準に合わせるために1999年より二部リーグ(J2)が開始されたが、Jリーグ全体の人気の低迷、経営の稚拙さなどが重なり、J2でも下位のクラブではアマチュア選手が多数在籍する状況であった。

この時代に在籍した外国人は、世界的に見て中堅クラスの選手が中心となった、南米選手では代表歴が20試合前後でブラジルとの間を行き来したビスマルクやエジウソン、シジクレイらがいる。ヨーロッパでは中堅のチームを渡り歩いた選手としては、エムボマらがキャリアの途中で日本を選んだ。アジアからは韓国代表のホン・ミョンボやユ・サンチョル、アン・ジョンファンらが来日した。また、旧ユーゴスラビアでの紛争から難民化する形で多くの選手がJリーグでの生活を選んだ。その代表はストイコビッチだろう。

2002-2010根付く時代

ワールドカップの成功により日本にサッカー熱が戻った。J2リーグも「わが町にもサッカーを」という声に押されて復活しつつあった。数個のクラブは破産の危機にあったが、経営者の入れ替えとJリーグ理事会の協力によって健全性を取り戻すことに成功した。ただし、メディアとの対立から放映権が少ない問題は解消しておらず、J1のトップチームの売り上げは伸び悩んだ。このような状況から、クラブ数とリーグ全体の売り上げは増え、選手数もそれにあわせて増加したものの、飛びぬけて強いチームも存在しなくなった。Jリーグは1部から2部までレベル差が小さくなる傾向となった。この傾向は今なお強くなっており、2部から昇格してその年のうちに優勝する事例や、優勝争いを演じたチームが翌年には降格するという事態も引き起こしている。

また、この時代に根付いたJ2リーグは、選手育成の貴重な場となった。J2における実践的育成により、多数の好選手が排出されるようになった。その典型例がJ2得点王のタイトルである。2004年ジュニーニョ(後のJ1得点王)、06ボルジェス(後のブラジル得点王・ブラジル代表)、07Hulk(後のポルトガル得点王・ブラジル代表)、08佐藤寿人(日本代表・後のJ1得点王)、09香川真司(後のドイツ最優秀選手・日本代表)、10ハーフナー・マイク(後のJ1得点王・日本代表)など、大きく飛躍した例に事欠かず、むしろ外れの方が少ない。

この時代の外国人は、日本人並の値段で獲得でき、その上で日本人より高い能力を持つ選手がスカウトされた。90年代にはヨーロッパのリーグが急拡大したため、ヨーロッパや南米のトップ級の選手はすでに獲得不可能となっていた。そのため、年俸が高額なベテランビッグネームは避けられ、若手ばかりが採用されていた。出身も、東ヨーロッパやアフリカ出身で欧州5大リーグのスカウトから漏れた選手や、南アメリカのエリートコースから惜しくも外れた若手選手がJリーグに集まった。また、若手が中心であったため、Jリーグで成長して飛躍する選手が多数現れた。この時代を代表する外国人は、ブラジルからはHulkやエメルソン、韓国からはパク・チソンやパク・チュホ、キム・ボギョン、アフリカからはドゥンビアらが来日している。これらの選手は、日本で実質的なプロとしてのキャリアを開始し、Jリーグで成長して世界的な選手へと羽ばたき、それぞれの国の代表に上り詰めている。

2011-草刈り場の時代

2011年以降、Jリーグの俸給はさらに抑えられる傾向にある。主たる理由はクラブライセンス制の導入である。クラブライセンス制は、ブンデスリーガでクラブ破産が相次いだ後に導入された財政健全化方針や、欧州で実施されているFinancial Fair Playと同様の赤字禁止の規約である。Jリーグにおいても、大分トリニータの債務過多に起因する経営危機から同様の制度の導入が図られた。この制度のもとでは債務や赤字は一定以内に抑えなければならないため、賞金を当てにした野心的な補強を行うことはできない。このため、ほとんどのクラブは強化はなるべくゼロ円移籍で済ませ、新戦力補強よりも長期契約した現有戦力の強化に向かっている。ただし、現有戦力の強化の方針という効果が表れるかどうかは、数年たたなければ分からないだろう。

また草刈り場となった経緯は次のエントリに記述した。

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