「選別」は「育成」ではない

世間では「鬼滅の刃」が大流行しているが、私としては中身を知った結果として若干渋い顔をしている。というのも、作中の主人公側の団体「鬼殺隊」が以前に記事として取り上げたスポーツ界のパワハラの典型構造ををしていたためである(フィクションに突っ込むのが野暮なのは承知しているが、前に記事を書いた身として書かざるを得ない、ということでお願いしたい)。

「鬼滅の刃」の「鬼殺隊」は、育成中の若手に過大な負荷をかけ、結果的にその過半数が死んでしまう。いや、「育成」という言い方は正しくない。作中で明言されている通りこれは「選別」であり、選良を得ることが目的であり、その過程で選別落ちしたものは壊れても構わない、というスタンスをとっている。

これはスポーツ界のパワハラ案件でも同様の意見を見かける。スポーツ界のパワハラは「負荷をかけるほど強くなる」「負荷に耐え抜いたものだけが本当に強い」「最善のチームを得るのが最優先であり、その過程で壊れる選手がいても気にする必要はない」といった信念によって齎されることが多い。

また、両者に共通する特徴として、リーダーが異常なカリスマ性を持っていることも挙げられる。同級生が何人も死ぬといった状況は普通の未成年なら確実にトラウマになるが、「鬼滅の刃」の作中の隊の指導者は隊員に慕われている。この構造はスポーツ界のパワハラでも共通である。以前に言及したベルマーレ湘南や米ラトガース大のパワハラでは、パワハラ環境下で残った「選良」の選手たちは(その過程で何人もの選手が壊れたことを無視して)監督に対する尊敬の念を公にしていた。批判的な言い方をさせてもらえば、「鬼殺隊」におけるリーダーのカリスマ性は、暴力が横行し支配のツールとして使われる組織として、非常にリアルですらある。

ただ、現代の価値観においてそれが許されないことであるのもまた確かであろう。少なくとも誰しもが受けるであろう教育、育成の段階は選別ではない。戸塚ヨットスクールのように主宰者と目的を共有せず客観的に見た場合には、誰しもがそれを許すべきではないものと思うだろう。単純にリソースの損得という概念で見ても、どのように成長するか分からない子供を早期選別してしまうメリットは薄いように思われる。また、大人においても人を使いつぶすようなやり方は許されないことは前回のパワハラ記事でも書いたことである。

作中の「鬼殺隊」は死ぬことが前提であるし、ミステリー作品に対して「殺人事件を描くなんて不道徳だ」と非難するのが野暮なように、フィクションに現実のパワハラの物差しを当てても詮無いことだが、大いに流行っていることでもあり、一応念のためあれはスポーツ界のパワハラに典型的に見られる構造でスポーツ界からは排除中のものである、ということはメモとして書かせていただいた。